緑に癒されない日々。
花を育てれば咲かせたい。木を育てるなら立派にしたい。買うなら安く売るなら高くと人の欲は尽きなくて植物と向き合う業はかくも深い。
期待を裏切る木・その2
《前日のエントリーからのつづき》
期待が重すぎて潰れた(?)アカシデから
ふと目を他所に移すと,こんなアカシデの盆栽が。

確かにこんな木もあったような気がするけれど,
大して期待した記憶もない。
これは自然体で,なかなか良い木ではないか。
あと20年もすれば・・・,いやいやアカシデに
過度に期待をするのはよそう。
こうやって将来が読めないとなると,
小枝を作りやすいイワシデに人気が集まるのも
詮無いことである。
ところでこのイワシデ,昔は「朝鮮ソロ」といったのだが,
最近この呼称はすっかり影を潜めてしまった。
それがいわゆる「言葉狩り」の影響なのかどうかは分からないが,
陰影に富むニュアンスと歴史をもった言葉が
「政治的正しさ」の影で消えてゆくのは少々寂しい。
期待が重すぎて潰れた(?)アカシデから
ふと目を他所に移すと,こんなアカシデの盆栽が。

確かにこんな木もあったような気がするけれど,
大して期待した記憶もない。
これは自然体で,なかなか良い木ではないか。
あと20年もすれば・・・,いやいやアカシデに
過度に期待をするのはよそう。
こうやって将来が読めないとなると,
小枝を作りやすいイワシデに人気が集まるのも
詮無いことである。
ところでこのイワシデ,昔は「朝鮮ソロ」といったのだが,
最近この呼称はすっかり影を潜めてしまった。
それがいわゆる「言葉狩り」の影響なのかどうかは分からないが,
陰影に富むニュアンスと歴史をもった言葉が
「政治的正しさ」の影で消えてゆくのは少々寂しい。
アカシデもう一丁
庭に生えたのか,鉢の中に飛び込みで生えたのか
記憶は定かでないが,気づいたら棚にあったアカシデ。
実生から丸2年といったところだろうか。

あまり伸びない性のようで,つまった幹が自然の曲で軽く波打ち,
そこから均一に枝が出て締まった印象がある。
4月9日のエントリーに載せたものより将来性がありそうだ。
盆栽=自然な成長を挫いて歪め,
植物をもてあそぶ行為のように見られがちだが,
本当は,成長が悪く自然界では淘汰される未熟児を拾い上げて
大切に愛培する趣味である。
「本当の盆栽好きは,とかく肩身の狭い思いをする。」とは,
さる盆栽業者の言葉であるが,
「真実は小さな声で語られる」の例えどおり,
盆栽の実際が世に知られる事は少ない。
もっとも「改作」と称して木を割ったり裂いたり曲げたりと
やりたい放題の近盆を読む限り,
盆栽の本道=植物虐待と取られるのも詮無いことと思う。
記憶は定かでないが,気づいたら棚にあったアカシデ。
実生から丸2年といったところだろうか。

あまり伸びない性のようで,つまった幹が自然の曲で軽く波打ち,
そこから均一に枝が出て締まった印象がある。
4月9日のエントリーに載せたものより将来性がありそうだ。
盆栽=自然な成長を挫いて歪め,
植物をもてあそぶ行為のように見られがちだが,
本当は,成長が悪く自然界では淘汰される未熟児を拾い上げて
大切に愛培する趣味である。
「本当の盆栽好きは,とかく肩身の狭い思いをする。」とは,
さる盆栽業者の言葉であるが,
「真実は小さな声で語られる」の例えどおり,
盆栽の実際が世に知られる事は少ない。
もっとも「改作」と称して木を割ったり裂いたり曲げたりと
やりたい放題の近盆を読む限り,
盆栽の本道=植物虐待と取られるのも詮無いことと思う。
不出来なアカシデ
アカシデの実生苗。
生まれて初めて「考えて」鋏を入れて作った
盆栽モドキである。

1年前は「なかなかよく出来た」と自己満足していた木だが,
今こうして眺めると鉛筆のような芸のない幹に
みすぼらしい枝がまとわり付いているようにしか見えない。
針金で幹に模様を付けたところで,
枝の疎らな所は直らない。
幹の中ほどで取り木をかけて,
頭を飛ばして下に向かった2の枝を主幹に半懸崖にするか,
あるいは頭部を使って作り直すことも可能かもしれないが,
2流の木はどこまで行っても2流という気もする。
かといって,うち捨てるわけにもゆかない。
責められるべきは木ではなくて自分の未熟さである。
この先もずっと,この木を見るたびに
幼稚だった自分を苦々しく振り返る事になるのだろう。
生まれて初めて「考えて」鋏を入れて作った
盆栽モドキである。

1年前は「なかなかよく出来た」と自己満足していた木だが,
今こうして眺めると鉛筆のような芸のない幹に
みすぼらしい枝がまとわり付いているようにしか見えない。
針金で幹に模様を付けたところで,
枝の疎らな所は直らない。
幹の中ほどで取り木をかけて,
頭を飛ばして下に向かった2の枝を主幹に半懸崖にするか,
あるいは頭部を使って作り直すことも可能かもしれないが,
2流の木はどこまで行っても2流という気もする。
かといって,うち捨てるわけにもゆかない。
責められるべきは木ではなくて自分の未熟さである。
この先もずっと,この木を見るたびに
幼稚だった自分を苦々しく振り返る事になるのだろう。








